ユーコさん勝手におしゃべり

9月27日
 稲穂 コスモス 曼珠沙華
ごめんなさい名を知らぬたくさんの野花。北関東は標高が上がるにつれ もうすっかり秋でした。ドライブ到着地点の奥日光は雲ひとつない上天気。中禅寺湖でいつものパン屋さんへ寄って湯の湖へ上り、ビジターセンターで今日見かけた花の名前を確認する。いくつかを覚えいくつかを忘れ、湖畔に寝ころんで本を読んで過ごす。昼に中禅寺湖に降りいつもの定食屋さんへ入り、金精峠を登る。群馬・四万温泉でいいお湯加減と山の幸を満喫。露天風呂で寝ころぶようにして見上げると青いもみじの葉がさいごの光合成をせんと小さい手を天に向けていっぱいに拡げている。あふれる緑を喜ぶ。一泊して帰るとき、四万へ行く度泊まる宿のほうじ茶がおいしいので「どこのお茶ですか」と聞くと、仕入れている地元のお茶やさんの名前を教えてくれ、数回分のお茶をビニールに入れて持たせてくださった。
 このとぎれることのない緑の山も一ヵ月後には色とりどりにかわることだろう。
 良い休日を過ごせたことに感謝して東京に戻る。待っている仕事のあることにも、感謝して、メールの返信に精を出します。

9月21日
 この暑さもあと数日と思えば、真夏日も「夏のおつり」と受け入れられる。
 夏の名残の陽射しの中、萩まつりの向島百花園へ行く。狭い園内だが、道順を変えて何度も萩のトンネルをくぐる。トンネル内は一方通行だから、トンネルに入る前の道を、右側から回ったり左側から回ったり、正面からまっすぐトンネルに入ったりしてみる。花は満開まであと少しというところだが、萩のトンネルの風情は格別だ。バラと違って花期が終わると全部刈り取ってしまうところがいい。冬は何もないハゲ坊主なのだ。トンネルの枠しかないないところに、春新しい芽がやってくる。ぐんぐん伸びて夏には一気にトンネルをおおいつくしトンネル内を木漏れ日だけにして、初秋にしだれた枝先に細やかな花をつける。そしてまた冬にはそのあとを残さない。何もないのに来年がある。
 萩まつりの間は、小屋に短冊が置いてあり誰でも投句できる。
  竹隧道 たれくる萩に 道ゆずる
思いつきを、足跡においてきた。今年も咲いてくれた萩に、ありがとう。

9月18日
 萩のトンネルをくぐると、秋がやってくる。
地域のお祭りのお神輿も終わって、そろそろ萩が見たくなった。向島百花園へ行く時期をはかりに近所の堀切菖蒲園へ行く。
 白い彼岸花に若いすすきの穂、半袖を着て夏の花壇に執着しているうちに、土の中は秋になっていた。
 今年の秋のご機嫌を伺いに、お天気をみはからって向島百花園へ萩のトンネルをくぐりに行こう。萩のトンネルの中にはいつも、私を元気にしてくれる魔法があるから。

9月13日
 古本屋にはあるものはあるが、ないものはない。明確な一冊を求めてやってくる人は、そのもの自体がなければ役にたたないし、全く目的なくただ漠と棚を眺めても何も収穫は無いことが多い。「○○について知りたいな」といった軽いくくりの目標があるくらいが丁度いいのだろうと思う。
 ただたまに、古本屋でなければならぬが、自分でも何だかわからないという不思議なお客様もある。
 もう何年も前になるが、ある時店に一台の車が乗りつけた。若い男性が、「親分が新築の家を建てた。ついては書棚分の本が欲しい」と言う。実際には「親分」という表現ではなかったが、口振りからそんな雰囲気だった。本は冊数ではなく、「これくらい」と手を拡げて面積で示した。かっこいい革装の新刊豪華本なら簡単に揃うが、それではダメなのだという。「教養ある人(=親分)が、実際に読み込んだ」感じが必要で、その為には古書でなければならないのだった。大きな事件があるとテレビでコメントを求められるどこかの老教授の背後にある「重みのある書棚」のイメージだ。イメージはわかるが、店に来た若い人は単なる「お使い」で、本が好きなわけでもなく、第一親分の趣味や好きな分野もわからない。
 「でもとにかく今日揃えたい」と言い張る。新築をお披露目する時にはもう、「ずっとそこに入っていた」ように親分宅の教養が書棚に納まっていなければならないらしい。
 ある程度目が揃っていて箔がつくもの、といわれても、あまりに範囲が広すぎる。「どうせ読まないから内容はいい」と言う彼に、尋問するように親分の年の頃や趣向を聞きだし本を出した。何年たっても忘れない、不思議なお客様だった。
 つい先だっては、若い女性のお客様が、入ってくるなり、「洋書がほしいんですけど」と言う。「いくらかありますけど、どういったものでしょうか」と聞くと、「…実は近くに出来るマンションのモデルルームに置くのですが」とこの方も内容ではなく、手を拡げた面積で本をあらわした。口振りから急いでいるらしかった。モデルルームの展示を任され家具や雑貨は揃えたが、ステキな暮しの演出に何かが足りない。上司にこの棚に本を置けと半ば怒られてとんできたようだった。文字を見れば何の本だかわかってしまう日本語の本より、装丁のきれいな洋書が良いということになり来店したようだ。背の質感や色で選ぶ。店主も書庫から洋書の箱を出して協力しているが、選んでいる間にも彼女のケータイには電話が入り、あわただしい様子が伝わってくる。幸いこちらの方は、自分のセンスに自信があり、ただ「お使い」で来た前の彼より選択は早かった。予算内で両腕に満載の本を抱えて、またもと来た方に帰られた。
 最後は、毎年5月頃にやってくる不思議なお客様で、たいてい唐突に「伝記の本ください」と言う。最初は驚いたが、毎年あるのでどうやらどこか近所の会社の新人研修らしいと検討をつけている。
 「伝記の本はこちらにありますが」と案内すると、「どれが面白いですかね」と聞いてくる。
 「それぞれお好みにもよりますので、一概には言えませんが…」
 「何でもいいんです」
 「例えば、日本人のものか 外国の方のものか」
 「どちらでもいいんです」
 「…」
 来るのは夕方近くだ。研修中に伝記を読んで、感想だかレポートだか小論文だかわからないが何かを出さなければならないようなのである。タイムリミットがあり 心の準備ができていないので、とにかく焦っている。棚とにらめっこして、自分はどんな時代やどんなことをした人に興味があるのだろうかと逡巡し、「本なんか読んだことないからなぁ」と言いつつ、一冊から三冊ほどを選ぶ。たった一晩か二晩で、「あれ程集中して本を読んだことはないな」と思うような経験をするのだろうか。
 一時に嵐のように来て、それきり来ない不思議なお客様である。

9月12日
 雨天の上に また雨天。いったい何日続くのかという雨降りのうちに、夏のプランターはみるみる衰えた。地面から生えていない草花たちは、こういう天候に弱い。
 毎日「咲けよ咲けよ」と唱えて手入れをしている間は夢ごこちだが、数日ほっとかれると、存在自体忘れられた廃花壇のようになる。ぬれそぼった花柄がボサボサと地面に落ちてくる。ようやく雨の上った午後、ハサミを持って外へ行き枝を刈り込んだ。明日は晴れるが、その翌日からまた雨が降るらしい。
 「もうちょっとがんばってねぇ」と夏のなごりの花々を励ましつつ、頭の中では次に入れかえる苗の算段をしている。
 夏花のさいごの一花のためにも、来春を夢見る球根や苗のためにも、あっぱれな秋晴れが待ち遠しい。

9月7日
 なぜか今、深沢七郎なのだ。
世間の風とはまったく関係なく、マイブームは突然やってくる。今年は猛暑の影響か、どっぷりはまる本がなく困っていたが、ここに来て急に、中公文庫『言わなければよかったのに日記』の佐野繁次郎による粋なカバーが私を呼んだ。暇な折に最初は覗き見る感じで読んでいたのだが、いつしかひきこまれ、「銘木さがし」に出てくるセリフ、
 「相構えて念仏怠りたまうな」
にドキュンとやられた。
 冬の京都を石原慎太郎と旅したとき、風邪をひかないようにと互いに心をいましめたときのことばだが、使ってみたいフレーズNo.1になった。これから秋が過ぎ冬に向かう頃、寒くなりはじめたらぜったい自分に、そしてそのときそばにいた誰かに言うんだ、「相構えて念仏怠りたまうな」
 あと2ヶ月くらいかな、待ち遠しいな。それまで、深沢七郎読んで、今秋をすごそう。

8月のユーコさん勝手におしゃべり
7月のユーコさん勝手におしゃべり
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「おしゃべり」