ユーコさん勝手におしゃべり

6月27日
 本を読んでいたら、「春女苑」の文字が出てきた。「はるじょおん」とふりがなが付いている。 「ハルジョーン」を漢字ではじめて見た。
 ちょうどその前日、千葉の佐倉へラベンダーを見に出かけた。ラベンダー祭りの終盤で、農地いっぱいにラベンダーが咲き、蜂や蝶が忙しく働いていた。そのラベンダー畑の前に一面ハルジョーンの一角があった。いつもは道端や土手でポチポチと咲いている。数輪だと目立たないが、群れて咲くと花園に見える と新鮮な驚きだった。
 この花は、小学一年生の最初の頃、理科の教科書に出ていた。ハルジョーンとヒメジョオン、そしてキャベツ畑の青虫とモンシロチョウ。小学一年生の教科書の中で、そのページだけをなぜか覚えている。
 そのおなじみのハルジョーンである。 花園に見える、と感じた翌日に出会った「春女苑」の文字に、うれしくなった。
 調べると春紫苑が本名(?)らしい。秋のアスター(紫苑)の春版という位置づけである。 やっぱり 春女苑 がいいな。 女の子がいっぱいで、風や蝶とささやきあっている。
 小学一年生のハルジョーンとの出会いから、はるか時を経て、再び別名で春女苑と出会った。

6月23日
 JR川崎駅西口のラゾーナとミューザ川崎の間にバスターミナルがある。バス停群は、古いレンガの遺構(?)のまわりをぐるりと回るロータリー式になっている。
 レンガの隙間には雑草が生え、欅の木にスズメが遊んでいる。横断歩道もなくそこへは入れないので、何の跡地で、何故保存されているのかわからない。わからないまま何年もたった。
 そして今日、「川崎赤煉瓦倉庫」のプレートをみつけた。バスがぐるりと回る時、目立たないところに貼ってあった。
 説明もなく、まだ何ものかはわからない。でも「何か」なのだとはわかった。
 街の景色はどんどん変わり、いつか跡地もなくなるかもしれない。
 家に帰って、調べよう。

6月20日
 ちょうど1週間前の木曜日、横浜の実家へ行った帰り道、「あ」と声の出るほど、月がきれいだった。左下に輝く星を従えていた。
 それから毎晩、天気が許せば空を見ている。
 月はだんだん丸くなり、日曜の晩から月曜にかけて満月となった。
 夜半、寝室の電気を消して、ブラインドと障子をあける。南向きの窓からまぶしい月光と木星が見え、時間の経過とともに動いてゆく。
 先週、月の左にあった木星は、今は右側にある。東京の空は うすらぼんやり明るく、木星以外の星は見えない。郊外の満天の星空とは別物だが、これはこれで良い。
 実は、急にインパクトを持ってあらわれた星が何物だか、数日前まで知らなかった。いろいろ調べて木星と知り、木星と月の位置関係もわかった。
 しかし、何でそうなるのかの図は、幾度見ても頭に入ってこない。世の中には、「何故そうなるのか」を知りたい人と、なんでそうなるのかとは関係なく事象を受け入れる人がいるのだな。
 ともかく わかってよかった。今晩も天文ショーを楽しもう。
 何故だかはよくわからなくても、美の余韻は一日中続くのだ。

6月13日
 昨日の昼下り、静かな店内にまだ来客は一人もいない。
 店のドアが開き、老婦人が入ってきた。
 「あの、すいません」 と正面を向いて、店の奥に声をかける。
 「はい。」 と入口の脇の席に座っていた私が返事をすると、すぐ横にいたわたしに方に向き直り、
 「あ… あの 亀さん、今日は見えませんね。」
 「いや、外にいますよ。今おなかに卵があるんで、すみっこでじっとしてるんですよ。」 と応える。
 「いつも亀さん見せてもらってて、うるさくしてるでしょう、すいません。」 と恐縮するので、
 「いいんですよ、外にいるんですから。お孫さんといらっしゃるんですか?」
 「ええ。いろいろ声をかけたりして、楽しませてもらってるから。」
 とフェルトのバックからビニール包みを取り出して、こちらへ差し出す。
 「えっ、困りますよ。ホントにこんなことしていただかなくて いいんですよ。外にいるんですから。」 と辞退するのだが、
 「いや、うるさくしてますから。勝手に名前つけちゃったりしてるんですよ」 と笑顔で再び差し出す。「すいません、ありがたく…」と受け取った。
 すぐ一緒に外に出て、カメの所在を確認する。
 このところカメは、道路際の柵の隅で、背中に泥を乗せてじっとしている。おなかに卵を抱えると、食欲が急激になくなり、後ろ足で地を掘るしぐさをするので、プラケースに黒土を入れて置いてやる。土に入ったり水桶に入ったりして自身を泥だらけにすると、落ち着く。身を守るカモフラージュにもなるし、美容にも良いようで、産卵後甲羅を洗うとツヤツヤになる。
 産んだところで無精卵だが、毎年律儀に産卵している。
 老婦人とそんな話をしていると、カメはそれまでつぶっていた目を開けた。知り合いが来たとわかったらしい。少しおしゃべりして、店に戻った。
 いただいた菓子袋には おかきが入っていた。
 店主が、
 「今日、稼ぎがあるのは、カメだけだな。カメがうちで一番稼ぎがあるんじゃないか…?」
 と静かな店内を見回した。

6月11日
 舗装道路でも 水たまりはできる。
 雨の中、書庫に注文品の本を取りに出たら、下校途中の小学生が骨が一本折れた傘をさして歩いていた。駐車場と道路の段差のところにできた水たまりに近づくと、傘を傾けて、水たまりの水を傘ですくった。そして、ザアッと流す。
 なるほどそんな風に遊びながら帰るから、傘の骨も折れちゃうわけだ。
 一人遊びの喜びの中で、彼の脳みそはどんどん育って、物理法則を獲得しているのだろう。 でも体は尋常でなく濡れている。
 お家の人は、きっと、「まっ、どうしたの?」 と聞くだろうな。

 店に帰って、店主に今見た光景を話した。店主は、
 「そうゆう子が 『雨に唄えば』の映画脚本みたいなの書くんだろうな」 と言った。
 彼を見た時 私は、「われは草なり 伸びんとす」 という高見順の詩が浮かんだのだった。
 みんなちがって、みんな いい。

6月4日
 店主とバイクに乗って、世田谷美術館に『ある編集者のユートピア展』を観に行く。
 4月に案内が来たときから楽しみにしていた展示で、いよいよ行けるとなった昨夜は、床についても、形にならない思い出のかけらが頭の中を飛び交った。
 『ある編集者』とは小野二郎氏だ。亡くなって36年になる。
 あまり勉強熱心でなかった私が、大学3年で何気なくとった比較文化の授業で教壇に立っていた。大きくて眠そうな体から出てくる優しいことばで、私はウィリアム・モリスを知った。モリスの、からまりつたわるデザインと柔軟な思想に心酔し、一番好きな講義になった。
 単位をとって4年になっても、その授業に出席し続けた。週に一度、楽しみに登校していたある日、掲示板に休講のお知らせが貼られた。そして程なく、訃報にかわった。
 まだまだもっと話が聞きたかった。
 聖イグナチオ教会の葬儀に一人で出かけ、しばらくして『大きな顔』という追悼本が郵送されてきた時、
 「ああ これで、ほんとにみんな終ったんだ」 と実感した。
 その時の彼の年齢については、記憶になかった。20代に入ったばかりの私にとって、先生は完全に「大人(おじさん)」だった。ただ見上げるばかりの知識量だった。
 彼くらいになれば、知識はもう完成した大きなかたまりになっていて、その中から講義の分を小出しに切り取って差し出しているものだと思っていた。
 (実際、出来上がった自著を毎年変わらず流しているような先生もいた。)
 彼が、今だ自分の中で建設中の知を、たぐりたぐり語ってくれていたことを、今日の展覧会に出かけて知った。急逝の年齢が、現在の私より若かったことと共に―。
 会場の最後に、先生の講義映像(於:高山建築学校)があり、見入った。形にならない思い出のかけらが、形になって写っていた。
 喋る時目をつぶっていたこととか、黒板の使い方がよみがえった。

 世田谷美術館は広大な砧公園の中にある。美術館の開館前に緑の中を散策した。遠足の幼稚園児がママと一緒に続々と集まってはしゃいでいた。互いにあいさつを交わすついでに、店主と私にも、「おはようございます」と笑顔を振りまいてくれる親子もいる。
 あの子たちにとって、私たちは、年齢を超えた遠い未来のおじちゃんおばちゃんなのだろう。
 今の齢と未来の齢は、プランターの一本の植物のつるの根元側と葉先側のように、あっという間に連なっていたと知るのは、未来の齢になったあとのまつりだ。

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