ユーコさん勝手におしゃべり

8月28日
 親と子の年齢差は、どんどん縮まる。
 たとえば私が4歳の時、母は36歳だった。9倍。
私が32歳で母は64歳となって、その差は2倍。 その後は1.数倍となって、そのうち同じく老人の仲間入りになるんだな…と、ぼんやり考えていたが、その先のことには思い至らなかった。
 先月母が亡くなり、親の年齢がとまった。医療が発達して、自分の親の齢を超えている人も多い。
 年齢差が一倍になる。その先の孤独を、私もいつか体験するのだろうか。

8月24日
 朝、店の前を掃いていたら、自転車の後ろに子どもを乗せて駅の方から来た人と、子どもと手をつないで駅に向かって歩いてゆく人が、同時に
 「あぁ! ひさしぶり!」
 と明るい声をあげた。子どもは小学校低学年の男の子で、幼稚園時代の友だちなのか、こちらも「よぉ!」と声をかけあった。
 「どこ行くの」 「また今度、ゆっくり会おうね」
 と別れた後、駅に向かうママが、
 「大きくなったわねえ」
 と言うと、男の子が
 「オレだって 大きくなっただろ」 と応えた。
 思わず掃除の手をとめて、手をつなぐ二人の後ろ姿を見た。
 「一年でどれだけ大きくなったか、わかったかい」 とでも言うような、男の子の誇らしげな顔が目に見えるようだった。

8月8日
 花が開く時に立ち会うと、うれしい。
 早朝、ドアを開けて外に出る。「今日 咲くかな」 と思うつぼみが目に入る。
 店の横のほんの小さな庭だが、咲き終えた花を摘み取り、飼い亀の世話をしているとあっという間に30分がたつ。仕上げに花に水をやる時、さっきはつぼみだった花が開いているのを見る。
 中から妖精が出てきたのさえ、見える気がする。蝶がやって来てくれたりするとさらにうれしい。
 「命だ、命だ、」 と心さわぎ、猛暑日に出かけて翌夕まで水をやれないかわりに、たっぷり濡らした新聞紙をプランターの根元に敷き置いた。

8月2日
 元気がトレードマークだった母が、7月後半に亡くなり、あわただしく半月ばかりが過ぎた。
 いくつか大病をして、死装束も戒名も自分で用意して、仏壇の引き出しにしまってあった。預金通帳類もきちんとまとめて、私がもの心ついた時から見慣れた黄色い非常持出のカバンに入っていた。ご丁寧に、葬儀する寺の会館使用料分の現金まで封筒に入れて納まっていた。
 直前まで、体調が許せば朝のラジオ体操に出かけ、友だちとカラオケやボッチャ大会を楽しんでいて、こちらとしては唐突な死だったのだが、当人には覚悟の日々だったのだろう。
 6月から身体のあちこちが悲鳴をあげ始め、「もう充分生きたわ」などと言っていたのだが、見舞いに行こうとすると本人が出かけていたりして、うかつにもそこまで悪いとは思わずにいた。倒れ、亡くなり、母が日常使っていた居室のカレンダーを見た。5月まではびっしりと、「○○会」「○○さん」と書かれていた母の文字が、6月は全くの白紙だった。自分の身心と対話して、一日、一日、と綱渡りで生ききった1ヵ月半の白い航跡だ。
 その後の役所回りや非日常行事の手配に翻弄され、必要最低限の仕事を一日24時間の内に詰め込んで過ごしてきた。
 「忙しいは心を亡くす」ということばを、今まで悪い意味にとってきたが、メソメソしていても仕様がない時、忙しいことは救いでもある。
 しかし、こんなに長い間、本や新聞といった活字に接せずにいたことはない。旅行に行く時もカバンには本が入っていたし、新聞読みは小学生の頃からの趣味であった。それが、母の死以来、文字は私から遠く離れ、手に取る気にならずにいた。
 そろそろ、日常に戻ろう、目の前にあっても内容が身体に入ってこないと思っていた活字世界を取り戻すきっかけにしよう、と、7月31日から一週間の日本近代文学館夏の文学教室「大正という時間-文学から読む」に通いだした。
 その時間の前後は、東京葛飾の店舗と、横浜の実家の間を、文字通り飛び回っているが、有楽町の読売ホールで文学者の方々の講演を聞く間だけは、活字の世界に浸り、次々読みたくなる本の題名をメモすることで、明日への一歩を踏み出している。

7月のユーコさん勝手におしゃべり
それ以前の「おしゃべり」